2009年07月02日

名古屋大学

名古屋大学(なごやだいがく、英語: Nagoya University)は、愛知県名古屋市千種区不老町に本部を置く日本の国立大学である。1939年に設置された。大学の略称は名大(めいだい)。

名古屋大学は、1939年に設立された名古屋帝国大学を直接の母体とする国立大学である。名古屋帝国大学は9番目(内地では7番目)に設立され、国内外地を通じて「最後の帝国大学」となった。帝国大学設立当初は医学部と理工学部の2学部のみを設置していたが、第二次世界大戦後の旧制学制残滓期間内に法経学部と文学部の2学部を拡充、新制名古屋大学となった後も教育学部、農学部等の学部や大学院研究科及び附属研究施設等を拡張し続け、現在9学部13研究科を設置している。

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2008年現在、関係者に4名のノーベル賞受賞者がいる。そのうち、名古屋大学が博士号を授与した者は3名で、学士号を授与した卒業生は2名となっている。[1][2][3]。

大学の略称は名大であり、「めいだい」と発音する。この「名大」という略称は商標登録(第4861457号)もされている。明治大学の略称である明大(めいだい)と発音が同じであるため、「なだい」と発音する人もいる[4]が、商標登録第4861457号の参考情報として付随している称呼が「メーダイ」であることから、公式には「めいだい」が正しい。

2009年06月13日

高エネルギー物理学は、加速器で作られる

高エネルギー物理学は、加速器で作られる高エネルギーを持った基本粒子の衝突反応を詳しく調べ、素粒子と呼ばれる究極の物質の構造や、その基本的相互作用について研究する分野である。

アメリカ合衆国では、スタンフォード直線加速器研究センターや国立フェルミ研究所、ブルックヘブン国立研究所などで、素粒子研究の黄金時代を築いた。 しかし、その後に計画されたSSC計画が予算を大規模に超過して中止に追い込まれた。現在は、欧州原子核研究機構や高エネルギー加速器研究機構の研究に参加を行うことと同時に、将来の国際リニアコライダー計画への参加も表明。

欧州原子核研究機構では、2008年から始まるLHC加速器を用いた7TeVの陽子・陽子衝突実験により、素粒子の標準模型に必要なヒッグス粒子が発見されることが期待されている。更に、その先にある大統一理論候補の検証への最初のステップが開かれる予定である。

日本では、高エネルギー加速器研究機構における世界最高強度の電子・陽電子衝突装置KEKBを使ったベル実験、つくば市から飛騨市へニュートリノを飛ばしてニュートリノ振動を検証するK2K実験など、世界的に注目される最先端の研究を実施。現在は、SPring-8やJ-PARC、RIビームファクトリーなどによって、加速器科学の応用研究まで視野に入れた取り組みにも注目が集まっている。
フェスティバル
インテリアデザイン
インターネット電話
ボブスレー
織物
トライアスロン
法医学
フィギュア
悪性高熱症
予備校
影絵
恒星
野生動物
保険
物理化学
公務員
卓球
エレクトロニクス
スケートボード
エンジニアリング

将来的には、アジア・欧州・アメリカまで含んだ国際リニアコライダーと呼ばれる、電子・陽電子をテラ電子ボルトレベルのエネルギーまで加速し衝突させる大型加速器の建設が検討されている。 標準模型を超える素粒子物理学の記述に方向性を与える実験には必要不可欠の加速器であるが、全ての建設費用が2007年現在の概算で一兆円程度と非常に規模が大きく、建設が実現するとしても世界で唯一の施設になると予想されている。

2009年06月09日

原則として厚生労働省が指定した大学の歯学に関する

日本:歯科医師 アメリカ:dentist、Doctor of Dental Surgery、Doctor of Dental Medicine ドイツ:zahnarzt

現在の日本では、原則として厚生労働省が指定した大学の歯学に関する正規の課程(歯学科、6年制)を卒業し、歯科医師国家試験に合格しなければ歯科医師になれない。したがって、歯科医師は学士(歯学)Bachelor of Dental Scienceである。

対して米国では、歯科医学校はすべて専門職大学院であり、卒業生はDoctor of Dental Surgery (DDS)の学位を得る。米国では全米統一の歯科医師試験が歯科医学校の卒業試験を兼ねるので、DDSは歯科医師と同義語である。このため日本の歯科医師も、アメリカではDDSと称することが多い。ここでDoctorというのは専門職学位としてのDoctorであり、学術上の学位(academic degree)のDoctorとは別物である(日本でも法科大学院を修了すると法務博士を得るが、学術上は修士扱いである)。 またハーバード大学歯科医学校(もとより専門職大学院である)など米国東部の一部の大学では、歴史的経緯からDoctor of Dental Medicine (DMD) の学位を授与している。つまり米国では歯科医学校を卒業(すなわち歯科医師試験に合格)すると、「DDS」「DMD」のどちらかの称号を与えられるが、両者の社会的評価に全く差はない。

ドイツでは、ドイツの歯科医師国家試験は4段階の試験が存在する。まず日本と同様に中等教育修了後に大学歯学部に進学でき、そこで約6年間の歯学教育を受けるが、歯学部での勉強と歯科医師国家試験は並行して行われ、歯科医師免許取得には歯学部で歯学教育を受ける必要があるが、卒業する必要はない。卒業には日本とは違い論文が必要であり、卒業試験ではない。その後、歯科医師の開業の許認可は州の委員会が判断する。しかし、封鎖地区では開業規制が強く実施されており、親子での権利移譲も認められてない。また、定年制を実施しており、医師同様の68歳で定年となる。私立の歯科大学は1校のみで、日本の産業医科大学と同様で、卒業後は産業界に就職することになっている。
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なお「歯学博士」または「博士(歯学)」の英語訳はDoctor of Dental Science (DDSc) が近いが、DDSと混同されることが多いため「Ph.D」(Doctor of Philosophy)と訳すケースが多い。 しかしPh.Dは、ニュアンスとしては純粋な科学を修めたことを意味するため、適切ではない。米国でDDS PhDと表記すれば、歯科医学校を卒業しただけでなく、さらに生物など純粋科学の大学院を修了して博士(理学)を取得したようなニュアンスに取られると考えられる。米国ではDDSだけで充分な社会的評価が得られるので、さらにPhDを取るような回り道はしない(日本でも歯科医師が博士(理学)を取得するケースはそれほど多くはない)。これは、「医学博士」または「博士(医学)」取得者などでも見られる誤った使用法である。

ちなみに学士(歯学)の場合と同じ様に、「歯学博士」または「博士(歯学)」が必ず歯科医師とは限らない。歯学系大学院の博士課程、又は歯学部の研究室で複数の論文を発表し、歯学部大学院に博士号を申請し、大学院教授たちの審査で博士号を与えるにふさわしいとされれば、博士号を歯科医師でなくとも与えられる。

専門医制度をとる米国、欧州、英国歯科教育制度を採用してきた一部のアジア地区(シンガポール、香港など)では、口腔外科医、矯正歯科医、歯周病医などの教育として臨床医を育成する観点から2-3年制のマスターコース(修士課程)があり、MS,MSDの学位と専門医としての認定書が授与される。日本ではこの専門医制度が十分確立されない中で4年制の大学院が設置されているが、研究に重点をおき、本来の臨床専門医教育を目的とするカリキュラムが組まれていないのだ現実である。早急に臨床専門医教育と純粋科学を習得するPh.Dとは別途に考慮される事が世界の趨勢して妥当である(所謂グローバルスタンダード)。

2009年04月25日

クズルバシュ

クズルバシュ(ペルシア語:??????、キジルバーシュ、クズルバシ、キジルバシとも)はサファヴィー朝ペルシアのイスマーイール1世の信徒、ないし彼の父ハイダルがトルクメン系の騎馬民族の彼らの信徒で編成したサファヴィー朝ペルシアの精鋭の重装騎兵、及び彼らの子孫とされる現在のイランとその周辺に現存する民族集団。赤いターバンないし帽子を被っていた事から赤い頭を意味するテュルク語がこの語源となった。

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サファヴィー朝のクズルバシュ
イラン民族(ペルシア)伝統の騎士パフレヴァーンの流れをくみ鎖帷子の上に胸部と背部、両脇腹を守る胸甲を、もしくは鎖帷子を鉄板で補強した鎧、前腕には篭手をつけ金属製の盾を持ちシャムシール、メイス、弓、騎槍(中には二股、三股になった騎槍も)を用いて戦った。またサファヴィー朝の神秘主義の下で狂信的なためにイスマーイール1世を神と崇めており士気は大変高かった。 東ローマ帝国を始めとするバルカン半島に侵攻していたオスマン帝国の背後を脅かすが最終的にはチャルディラーンの戦いでイェニチェリの銃の火力の前に敗北する。

民族としてのクズルバシュ
現在クズルバシュ人とされる人々はイラン、イラク、アフガニスタン、アゼルバイジャンなどに存続しているとされる。一般的にはトルクメン人として一括される。

2009年04月08日

電子音楽

電子音楽(でんしおんがく)は、現代音楽の一種。語義としては電子楽器を用いた音楽全般であるが、一般には、電子楽器や、録音テープを用い、それらなくしては演奏し得ないような技法によって作り出された、前衛的な現代音楽をいう。

技法 [編集]
楽器音やその他の音を録音したテープを切ってつなげたり、走行速度を変えたり、逆方向に走行させて再生する。
シンセサイザーを用いて、伝統的な楽器音以外の音を音楽に用いる(シンセサイザーの音を主体とした内容である場合は、特に「シンセサイザー音楽」と呼称される場合がある)。
サンプラーを用いて、音素材を自由に組み合わせる。
それらをコンピュータによって制御する。
コンピューターによる制御を、偶然性に任せたり、そのときどきの演奏によって即興的に変化させたりする。

電子音楽の歴史 [編集]

電子音楽の黎明期 [編集]
19世紀におけるピアノの構造的な発展が、音楽のそれと同調しているように、電子音楽の歴史は、電子工学というテクノロジーと道を同じくしている。従って、電子音楽について説明する時、特にその黎明においては電子・電気楽器の開発と重なる事項が多い。

史上初の実用化された本格的な電子楽器は1897年に米国の発明家サディウス・ケイヒルが特許を取得し1906年に一般公開したテルハーモニウム、別名ダイナモフォンとされている。 これは145個の改造されたダイナモにより可聴周波数帯域の交流信号を生成することを原理とし、ポリフォニック・ベロシティ・センシティブのキーボード(7オクターブ、40Hz-4kHz間で調律可能な36音/オクターブ)を備えていた。初期モデルはピアノ響板で製造されたラッパ型ホーンから、後のモデルは直結した電話回線を経由、もしくは特製アコースティック・ホーンに接続された電話受話器で音を聴いた。この方法はアンプ(増幅器)が誕生する以前に電子音を聴く唯一の方法であった。重さ200トン、長さ60フィート、総工費20万ドルと、ばく大な規模であるこの「電子楽器の始祖」は20年間ニューヨーク39丁目のTelharmonicホール全体の床を占領していた。1911年、3号機にして最後に製造されたテルハーモニウムの設置場所は535 west 56th street New York Cityで1916年まで作動した。しかし、電話回線を経由して、ホテル、レストラン、劇場、一般家庭への有線音楽配信をもくろんだケイヒルのビジネスは、電話回線への著しい通話干渉によりとんざした。録音は残っていないとされている(基本的な発音原理はやがてハモンドオルガン=トーンホイールへと継承された)。

一般に広く認知された最初の電子楽器は1917?1919年ごろにソ連の発明家レフ・テルミン教授によって発明されたテルミンである。これはアンテナ間の静電容量を手で遮ることによって調整し、その変化を音に変えることで演奏する。ソ連では1930年代にも技師ムルジンによって光学式(サウンド・トラックと同様の原理)を用いる方式が考案されている。1928年、オンド・マルトノという電子楽器がフランスのモーリス・マルトノによって発明された。これはテルミンと同様に単音で奏される楽器であったが、音程は糸(リボン)によりコントロールする。この楽器は、トーン・フィルターで正弦波を加工することで作った音を、弦、シンバル等の様々な加工を施したスピーカーから出力する。オリヴィエ・メシアンのトゥランガリーラ交響曲の中で使われ、現在でもしばしば演奏される。1930年には、フリードリッヒ・トラウトバインがテルミンやマルトノをさらに進化させたトラウトニウムを開発する。使用例として、ヒンデミットのトラウトニウムと弦楽の為の協奏曲等がある。1935年にはハモンド・オルガンが開発される。

戦前の日本においても、これらの動向から隔絶されていたわけではなく、時として欧米のこれらの成果と同期した事例を見ることが出来る。例えば、宮城道雄の発明による八十絃に電気増幅器(アンプ)を付ける試み(1929年)や、長唄奏者の四世杵屋佐吉(本名・武藤良二)と楽器製作師の石田一治の共同製作による三味線をマイクロフォンとアンプで増幅する電子楽器「咸絃(かんげん)」の製作(1931年)等が挙げられよう。

第二次大戦後:1940-50年代 [編集]
第二次世界大戦後の数年間、電子音楽は進歩的な作曲家によって作曲され、従来の楽器の表現を超越する方法を実現するものとして迎えられた。

現代的な電子音楽の作曲はフランスで、1948年のレコードを用いたミュージック・コンクレートの作曲から始まった。これは町の中の音など具体音を録音し、レコードで編集するものである。したがって最初のミュージック・コンクレート作品は、フランスでピエール・シェフェールやピエール・アンリによってレコードを切断して作られた。その他アメリカでは、フランスから渡ったエドガー・ヴァレーズなどがミュージック・コンクレートなどより編集しやすいテープ音楽を製作している(デイヴィット・メイゾンとエアハルト・カルコシュカからの出典)。

一方で電気的に生成された音による電子音楽(この場合の電子音楽という言葉は狭義で、具体音を使うミュージック・コンクレートに対して、電子音のみの音楽という意味で使われる)が、ドイツのケルンにある西ドイツ放送WDRの電子音楽スタジオでテープを使って生まれた。こちらの分野ではカールハインツ・シュトックハウゼンやゴットフリート・ミヒャエル・ケーニッヒが最初期から活躍し、シュトックハウゼンの「少年の歌」・「コンタクテ」などの傑作が生まれた。コンタクテの器楽合奏バージョンでは、早くもテープと器楽の生演奏とを組み合わせている点が注目される。少し遅れてハンガリーから亡命したジェルジ・リゲティも参加し、初期の管弦楽曲「出現」や「大気」、「ロンターノ」の作曲技法の大きな指針となった。イタリア国立放送RAIの電子音楽スタジオでは、ルチアーノ・ベリオ(「ジョイスへのオマージュ」「ヴィザージュ」)、ブルーノ・マデルナなどが活躍した。

当時のドナウエッシンゲン現代音楽祭ではフランス人はレコードを、ドイツ人はテープをそれぞれ持参して自作を発表した。この少し後、ポーランドのクラクフのクシシュトフ・ペンデレツキらは独自に電子音楽を研究し、「広島の犠牲者に捧げる哀歌」などを作曲する技術(トーン・クラスター)を開拓している。作曲者本人へのインタビューによると、彼の初期の優れた器楽作品群は電子音楽なしでは全く考えられなかったとのことである。

ミュージック・コンクレートと、狭義の電子音楽とをまとめてテープ音楽と総称する。

日本ではNHK電子音楽スタジオが世界の電子音楽の初期から設立され、黛敏郎によってミュージック・コンクレートと電子音楽がいち早く日本に紹介された。シュトックハウゼンが来日し作品「テレムジーク」を作るなど、NHK電子音楽スタジオの当時の功績は大きい。日本の作曲家では武満徹、湯浅譲二、松平頼暁などがここで活躍した。

武満や湯浅はNHKスタジオにかかわる以前から、東京通信工業(ソニーの前身)から開発されたばかりのテープレコーダーおよびそれとスライド写真を組み合わせたオートスライドを借りてきて、その機械を使ってテープ音楽を製作していた。また彼らの属する芸術家グループ実験工房で、それらテープ音楽やオートスライドの作品発表会を行っている。これらの活動は草の根ながら、世界的に見てもテープ音楽の歴史の初期にあたり先鋭的な活動をしていたことを意味する。

音を発生することを目的に作られた電子音楽スタジオではなく、一般的な計算機としてのコンピュータを、作曲上のパラメータを決定する自動作曲に用いた最初の例としては、レジャレン・ヒラー(Lejaren Hiller)とレオナルド・アイザックソン(Leonard Isaacson)による、イリノイ大学のコンピュータILLIAC I を使った「イリアック組曲」 (1957年)が挙げられる。

1960-70年代 [編集]
その後初期のアナログ・シンセサイザーの発明(特にモーグ・シンセサイザー)により、電子音楽は飛躍的に発展し、クラシック系現代音楽以外にも多くの音楽ジャンルで用いられた。日本では冨田勲がアナログ・シンセサイザーを多く用いた作曲家として有名である。

テープレコーダーが比較的安価になり一般の手にも触れるようになったため、大学や放送局などの研究機関とかかわりのない在野の作曲家たちもテープ音楽の制作に参加できるようになった。スティーヴ・ライヒは、同じ録音で同じ長さのテープループを用い、同時に再生することでわずかな回転数のずれからディレイが生まれ、2つの周期がずれていくことに注目し、「カム・アウト」「イッツ・ゴンナ・レイン」などのテープ作品を生み出した。これがやがてミニマル・ミュージックのアイデアにつながっていく。

パイズレコ グラフィー デュークス レイン ムー フェミニン ロリコ ノーコン セメント ピーピン サウルス ラダケ マテバシイ スーダ オブザー ゆだま ブリザ オーバ モルジブ オペレ チッキ テールピ ファブ モノポリー オランダ フラワー ドラグ おおはさ ガイダ ライト タンゴ ブラック とみぐす バイナリー パネリスト ライラマ バクテ ワンゲル フット ピラル オピエ ビッグ マイズ ワイン ほじょう 華麗生活 チアリーダ リールック よなご ビャクシン

2009年03月24日

名鉄モ770形電車 (初代)

名鉄モ770形電車(めいてつモ770がたでんしゃ)とは、かつて名古屋鉄道(名鉄)で運用された通勤形電車である。

元々は竹鼻鉄道(現、竹鼻線)が発注した車両であるが、竹鼻鉄道が名鉄に編入された後に完成したため、竹鼻鉄道での運用実績はない。

晩年は電装解除され、ク2170形に改称されていた。

沿革 [編集]
1942年(昭和17年)竹鼻鉄道がこれまでの四輪単車のうちデ1?4の代替名義で日本鉄道自動車工業に全長16m級の半鋼製ボギー車デ1・2(2代)の2両を製造発注したが、翌1943年(昭和18年)に竹鼻鉄道は名鉄に吸収合併されたため、1944年(昭和19年)に車両が完成した時には引き受け先がない、という事態が発生した。結局、竹鼻鉄道を吸収した名鉄が引き受け、モ770形771・772となる。

竹鼻鉄道が架線電圧600V電化であったため、当初600V用に電装されていた。主に尾西線や一宮線で使用されていたという。1948年(昭和23年)に西部線(旧名岐鉄道の路線)の架線電圧が1500Vに昇圧した際は2両とも電装解除されて付随車のサ770形となったが、翌1949年(昭和24年)に再度1500V用に電装される。再電装後は1500Vの支線区で使用されていた。

1965年(昭和40年)に3730系などに電装品を譲り片運転台化されク2170形2171・2172と改称され、揖斐線・谷汲線に転属したが、1968年(昭和43年)に廃車となった。

製造当初は窓配置d2D7D2dの両運転台、後に片運転台となる。また、片側のみ貫通化されていた。

ク2170形に改造された時、2171は貫通扉のある側に、2172は貫通扉のない側に運転台がつけられた。そのため、異なる形式の車両に見えたという。

幻のモ773 [編集]
竹鼻鉄道が本形式を発注したのとほぼ同時期の1943年に、竹鼻と同時に名鉄へ合併された東美鉄道(広見線・八百津線の前身)も日本鉄道自動車に本形式と同一設計の車両を発注した。本形式同様名鉄へ引き継がれ、続番であるモ773の番号が予定されていたが、現車は名鉄に納入されることがなかった。

ベリア スニップ プット オランダ ポーズ フォロー 最終便 パピヨン カボル モンク デキス ライザー ユビキ オレン ムニエ はまおぎ タブカラー ライフ カーチ チークダン くぼち ビスター きこう しらかば シャー ポリタン リノリ ダンプ サスペ レーヨン ラバトリー ノルマ サイトシテ パルス アゼル マウンテン ジュール トリビア ジャパネ センタ リード いもづる カプラー レンレン ポーザル みやこ ダンテ トックス オーラ ジョンブル


2009年03月08日

チャンプルー

チャンプルーとは、野菜や豆腐などを炒めた沖縄料理。チャンプルーとは沖縄方言で「混ぜこぜにした」というような意味があり、野菜や豆腐に限らず、様々な材料を一緒にして炒める。「ゴーヤーチャンプルー」「タマナーチャンプルー」などのように主な材料の名を冠して呼ばれることが多い。

特に暑い時期で食欲が減退した時でも、ふんだんに野菜のビタミン・ミネラルや、豆腐や肉のタンパク質、肉や調理油の脂質といった、各種栄養が取れるよう工夫されている。またバリエーションが多く、近年ではテレビ番組で紹介されるなどして、沖縄県以外の日本各地でも食べられるようになった。

琉球・東南アジア・日本・中国・アメリカの風物が歴史的経緯から入り交じっている沖縄県の文化のことを「チャンプルー文化」などと呼ぶこともある。

チャンプルーの語源は、インドネシア語・マレー語のcampur[1][2]](チャンプール又はチャンポール:音声は[3])との説がある[1]。この語は、同語源の日本語のちゃんぽんと同様「混ぜる」「混ぜたもの(料理)」という意味を持つ。さらに朝鮮語にも同様の意味で「チャンポン」がある。これらはいずれも同語源と考えられるが、由来としては諸説ある。まず福建語の挨拶「吃飯」もしくは「吃飯了(ジャーパーベイ)」(直訳するなら「飯は食ったか?」)から来ているとの説、同じく福建語の「混ぜる」を意味する語から来ているとする説(北京語にはchānの読みで「混ぜる」という字の摻がある)が存在する。

素材・調理法
チャンプルーに使われる材料は多彩であり、ゴーヤー、キャベツ、タマネギ、ニンジン、シイタケ、モヤシといった野菜、風味のある独特の豆腐、豚肉(又はスパムなどのポークランチョンミート、ツナ)、卵、麩等が材料となりうる。野菜炒めとの大きな差違は、炒めても崩れにくく、独特の風味を持った豆腐(島豆腐)を使用する点であるが、中には固く茹でた素麺とニラやネギなど少しの野菜のみを炒めるソーミンチャンプルーなど、豆腐を使用しないチャンプルーも存在する。ただし、用語の意味としては、豆腐を用いないものはチャンプルーとは呼ばない習慣であって、麩や素麺などの炒め物は別の呼称を用いるべきであるとする意見もある。

沖縄県の豆腐が入手できない場合には、代わりに念入りに水切りをした木綿豆腐を代替として用いたり、厚揚げを使用することもある。特に近年の日本本土で入手できる豆腐は製法上の違いから水分を多く含んだ物が多く、きめが細かくて脱水し難い絹ごし豆腐は、炒めた際にグズグズに崩れてしまうために適さない。

素材を順に炒め、豆腐・ポーク等の味に加えて塩・醤油(好みで胡椒も)などで味付けをして作る。砂糖を入れて少し甘くしたり、風味付けに鰹節やピーナッツバターなどを用いることもある。溶き卵を加える場合は最後に混ぜ合わせて仕上げる。

チャンプルーのバリエーション
チャンプルーは、主な材料の名を冠して「○○チャンプルー」と呼ばれることが多い。以下には、代表的なチャンプルーの名前と、それに使われる材料を記した。

ゴーヤーチャンプルー
代表的なチャンプルーで、ゴーヤーを含めた野菜、豆腐などを材料とする。
タマナーチャンプルー
タマナー(玉菜)とはキャベツのことで、キャベツ中心のチャンプルーを指す。「タマナーチャンプルー」という場合、他の野菜が少量であったり、豆腐・ポーク等を含まないことが多い。
マーミナーチャンプルー
マーミナー(豆菜)とはモヤシのことで、モヤシ中心のチャンプルーを指す。「マーミナーチャンプルー」という場合、他の野菜が少量であったり、豆腐・ポーク等を含まないことが多い。
パパヤーチャンプルー
生で食べられるようになる前の、青いパパイヤを千切りにしてあく抜きし、チャンプルーにしたものをいう。
ナーベーラーチャンプルー
ナーベーラーとはヘチマのことで、青い状態のヘチマを豆腐やポークなどと炒める。水分が多く、煮物状になるので、チャンプルーと呼ばず「ナーベーラーンブシー」とも呼ばれる。
野菜チャンプルー
野菜・豆腐・ポーク等を材料としたチャンプルーという。「野菜チャンプルー」という場合、野菜の種類が多く、特に中心となる野菜がないというより、あまりに色々なチャンプルーの特色を混ぜてしまったもので、モヤシ・シイタケ・ニンジンといった、様々な野菜が用いられる。特に野菜類から大量の汁が出るが、これらが醤油や肉汁とまざって、非常に複雑な風味になる。
豆腐チャンプルー
チャンプルーの中でも、豆腐を主役として、他の野菜やポーク等があまり無いものを指す。
ポークチャンプルー
「ポークチャンプルー」と呼ぶ場合、豚肉やツナなどではなくポークランチョンミートを使ったチャンプルーであることを示す。
フーチャンプルー
フーとは麩のことで、沖縄県で常用される車麩を水や卵液に浸したものを、野菜などとともに炒める。豆腐は使用しないため、フーイリチーと呼ばれることもある。
ソーミンチャンプルー
ソーミンとは素麺のことで、固めに茹でた素麺を少量の油とニラやネギなど少量の薬味野菜、予め炒めておいたポークやツナなどと一緒に炒めたものを言う。焼きうどんの麺を素麺にしたようなものだが、薬味野菜のせいでよりあっさりした感じに仕上がる。なお、日本本土においても江戸時代の料理書『豆腐百珍』に「豆腐麺」という名前で豆腐と小松菜を具にした物が紹介されている。また、鹿児島県奄美諸島には油そうめんと呼ばれる類似した料理が存在する。
なお、炒め物の中でも昆布や中身(豚の臓物)等の炒め煮は「イリチー」と呼ぶ。細切りにしたニンジンや大根を炒めたものもポピュラーな惣菜だが、これは「シリシリ」と呼ばれ、チャンプルーには含まれない。また、ソーミンチャンプルーには豆腐を使わないことから、炒め物を意味する「タシヤー」「プットゥルー」等の語を使うべきだという主張もある。
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チャンプルー文化
沖縄県は古くから、日本本土や中国文化の影響も受けてきたほか、第二次世界大戦後のアメリカ軍による統治を経験し、それぞれの文化と接することで常に影響を受け続けてきた。それらを柔軟に受け入れて、独自に生み出された沖縄県の文化を「チャンプルー文化」と呼ぶことがある。例えば、江戸時代に日本と中国の貿易の中継点とされたことから、沖縄県では採れない昆布を用いた料理が盛んになった点や、米軍基地に滞在するアメリカ人からの影響を受けて、紫など「オキナワン・ロック」と呼ばれるロックの系統を生み出した点などはチャンプルー文化の産物である。

2009年02月20日

ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)

恒星間航行用超弩級宇宙戦艦。型式名は「M-21991式第1種宇宙戦闘艦(戦艦)」[1]。艦名は大日本帝国海軍の戦艦大和に由来する。同型艦は無し。西暦2199年就役。2203年戦没。人類史上初の超光速宇宙船でもある。
チャーター ファック なめこ バルチス 七色の風 サイドスタ アップ ジプシー ビルマ 赤唐辛子 牧場の家 ストック スリング アーケイズ ヒエロ バースト 一本釣り ダウナー 夏の日 青春の谷間 ワラン バターピ 風神雷神 マイイレ バード トロイオ デコルテ バビロン マロン てっけん 番外野郎 ダイハー ナイロビ オマーカー フルライ テリー 赤オクラ アップ 検索マナ メータロィ ブータン カニ歩き ヒーロ ローゼ スキャン 一本勝負 ガーケキ わらづと フラッ マルトル

ガミラス帝国による発見を避けるため、遊星爆弾によって干上がった九州坊ケ崎沖の海底に露出した、1945年に戦没した戦艦「大和」の遺跡をカモフラージュにして改造、建造された。

元来は選ばれたわずかな人類と生命種を乗せ地球を脱出するための「ノアの箱舟」として建造されていた[2]。しかし、イスカンダルからのメッセージ飛来、及び波動エンジン設計図の入手を機に、地球脱出からイスカンダルへの航海へと計画は変更された。

国連宇宙局ヤマト計画本部兼地球防衛司令部の指揮下にあるが、地球との交信可能距離を脱した後の全指揮権は艦長一人に帰属する。

艦体解説
艦型
戦艦大和をベースとしたため、水上艦艇をそのまま宇宙に浮かべたような外観を有している。

艦体上部中央には上甲板からの高さが60メートル以上に達する巨大な司令塔がそびえ、頂上部には艦長専用居室、その直下には操艦、索敵、戦闘、通信、構造維持、生命維持、調査分析、機関操作と言った艦の全機能を、艦長以下各班の責任者が集中管理するための第一艦橋、さらに下に航路策定並びに航海管制に機能特化した第二艦橋(航海艦橋)が収まる。

司令塔真下の位置に艦底から突き出ている第三艦橋はメインブリッジである第一艦橋のバックアップのためのサブブリッジであり、内部設備は重力下環境で船体が横転したような状況を想定した、潜水艦発令所を模した上下対称構造になっている。

主砲を始めとする各種兵装は、艦体上部に集中している。[3] 兵装を備えない下部は重装甲で、七色星団のドメル艦隊の決戦時、ドメラーズ2世の接舷、自爆攻撃を受け、第三艦橋を失うも艦自体の航行は可能なほどの防御力を持つ。

大気圏内航行時に安定保持のため、左右両舷に収納式の巨大なデルタ翼型主翼を装備している。[4]は、尾部の3つある舵、姿勢制御翼と併用して用いる。また、着水[5]・潜水能力を有している。

波動エンジン
主機関には、イスカンダルより送られた設計図に基づき、急遽製造された、波動エンジンを装備している。波動エンジンによって、ワープ(空間跳躍)能力を備えることになり、長距離の恒星間航行が可能になった。また、波動エンジンが生み出すエネルギーによって、従来の地球製宇宙船とは一線を画した戦闘能力を得ることが出来た。

また、補助エンジンを2基装備する。これは副推進器であると同時に、主機である波動エンジンの始動にも使われる一種のセルモーター、スターターでもある。補助エンジンのみでも通常航行は可能だが、ワープはできない。

兵装
主要兵装は、艦隊決戦兵器である艦首波動砲、主・副三連装ショックカノン[6]、煙突ミサイル、艦首・艦尾ミサイル、舷側ミサイル、パルスレーザー砲など。武器ではないが、艦首部の両舷に各1基装備のロケットアンカーも、敵艦体に打ち込むなど攻撃に用いることができる。

波動砲は波動エンジンのエネルギーをそのまま利用するので、波動エンジンを始動していないと使えない。また、エネルギー充填に時間がかかり、充填中は他の兵装も使えなくなり無防備になってしまうという欠点がある。波動砲発射後は波動エンジンの出力がゼロになってしまうため、波動エンジン再始動のためのエネルギーを蓄えておく必要もある。その為、波動砲発射時には戦闘に不要とされる艦内照明や自動通路等は、全て停止させている。

波動砲以外の兵装は補助エンジン駆動のみで使用できるので、波動エンジンが使用できない状況でも戦闘可能である。

搭載機
艦尾艦底部にエレベーターを使用し立体的に格納することのできる格納庫がある。

艦尾のカタパルト(戦艦大和の水上機用カタパルトと同位置)からコスモ・ゼロ、艦底ハッチよりブラックタイガー(後にコスモタイガーIIに機種更新)戦闘攻撃隊を発進させることができる。

他に惑星探査用の中型機コスモハウンド、内火艇を兼ねた救命艇、上陸用舟艇、中型雷撃艇、修理艇、大気圏内外両用運搬船、各種探索艇、円盤型救命機(イスカンダルでのダイヤモンド大陸水没時に出動)など多数の機体を搭載する。さらにはバルーンダミーのような特殊な装備品をも常備している。

居住性能
もともと地球脱出用に設計されていたため、航海が長距離、長期間に及ぶことを想定し居住性は高い水準にある。艦内には人工重力が働き地上と同じく行動できる。この人工環境に乗員100余名が居住している。

艦長は艦橋頂上部の専用個室、各班の班長クラスの乗組員には専用個室が与えられているが(『宇宙戦艦ヤマト』第14話、第19話)が、一般の乗組員はいわゆるタコ部屋(『ヤマトIII』)暮らしである。直掩艦載機隊(ブラックタイガー隊)や空間騎兵隊などの戦闘員専用の居住ブロックは格納庫に隣接しており、緊急事態にも迅速に対応できるようになっている。

乗員福利施設として、士官食堂や自動配膳の一般食堂、ジムを備えた体育館、レクリエーション施設と精神医療施設を兼ねるイメージ投影ルームや冷凍睡眠装置、さらにスナックまである。大工場直上の居住ブロックに2階ぶち抜きの映画鑑賞室や男女別の大浴場も設定されていたが本編で描かれることはなかった。

生産設備
自前の艦内工場を備え、外部から原料・資材を調達する必要はあるが、艦体維持管理部品や艦載機を含めたミサイルなどの消耗系の兵器弾薬の生産能力を持つ。

食糧に関しても緑黄野菜を自給するヤマト農園で、ある程度は自給自足可能で、農園で生産する野菜や果物の他にも人造タンパク質から肉類も合成され、糖分などの栄養素も植物からとっている[9]閉鎖的な人工環境を作っていると言えるが、完全ではなく長期航海時には地球型惑星で生鮮食料品になる植物の採取を行うこともあった。

乗組員
『宇宙戦艦ヤマト』では総乗組員数は114名となっている。

対ガミラス戦役時のイスカンダル遠征における、生存者は67名、戦没者は47名。この設定は1977年公開の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』ラストシーンに出された数値である。[10]

対彗星帝国戦役時の生存者は18名。[11]イスカンダル星、テレザート星両航海での戦没者の総数は96名。[12]

『宇宙戦艦ヤマト』第10話で、複数の女性乗組員の姿が見られるが、その後、女性乗組員が登場しないのは冷凍睡眠下にあるからと説明している。[13]その後は『ヤマトよ永遠に』での真田澪(サーシャ)まで、森雪以外の女性乗組員は登場しない。

『宇宙戦艦ヤマトIII』では、第2の地球探しという長期任務上、出航時には、京塚ミヤコ他10名程度の女性乗組員(看護士)を乗船させていたが、第8話のラストで、艦長の古代進は、星間戦争に巻き込まれる危険性が高まってきたという理由で、森雪以外の女性乗組員を早々に地球へと帰還させている。

艦内組織
艦内の基本的な組織として、艦長(不在の場合あり)以下、班[14]とその配下の科[15]により構成される。艦内での乗組員の隊員服は、各班によって6パターンの色分けがされている。

艦長 : 沖田十三
戦闘班 : 班長 古代進
砲術科(砲術班) : 砲術長(?では砲術補佐) 南部康雄:白地に赤矢印
飛行科(戦闘機隊/艦載機部隊/ブラックタイガー/コスモタイガーII隊) : リーダー 加藤三郎 : 黒地に黄矢印[16]
航海班 : 班長 島大介
操縦・航路探査・レーダー科 : 副操縦士(操鑑補佐) 太田健二郎:白地に緑矢印
通信班(科) : 班長  相原義一: 黄色地に黒矢印[17]
工作班(技術班): 班長 真田志郎 : 白地に青矢印
動力班(機関部): 班長 徳川彦左衛門(初代)・山崎奨(2代目): 白地に橙矢印
生活班 : 班長 森雪 : 黄色地に黒矢印
分析科
炊事科
医療・衛生科 ( 佐渡酒造は白衣に赤十字を着用し、看護士を務める乗組員も着用)
これらの基本設定が確定したのは『さらば宇宙戦艦ヤマト』以降である。[19] 『宇宙戦艦ヤマト』の初期と『宇宙戦艦ヤマトIII』[20]以外では、班長以外の乗組員の隊員服の首周り部分は白色である。

諸元
全長 265.8 m
全幅 34.6m
全高 77.0m
基準排水量 62,000t
乗員 114名
主機 波動エンジン×1基
補機 補助エンジン×2基
兵装 艦首波動砲(収束型)1門
主砲:48cm[46cm]三連装衝撃砲(ショックカノン)3基[21]
副砲:20cm[15cm]三連装衝撃砲(ショックカノン)2基[22]
煙突ミサイル[23]×8セル(再装填可)
艦首ミサイル(魚雷、迎撃ミサイル)[24]発射管×3門×2、後部同×3門×2
両舷側ミサイル発射管×16門[25]
連装パルスレーザー砲多数
4連装パルスレーザー砲多数
側面機雷投射機
波動爆雷投射機
[艦底部垂直投下爆雷][26]

艦載機 コスモ・ゼロ
ブラックタイガー後にコスモタイガーIIに機種更新
コスモハウンド
救命艇
上陸用舟艇
中型雷撃艇
修理艇
大気圏内外両用運搬船
各種探索艇
円盤型救命機(イスカンダルでのダイヤモンド大陸水没時に出動)

特殊装備 バルーンダミー 本艦のサイズデータについて
上記のデータは当時の製作会社オフィスアカデミーが公式資料集『宇宙戦艦ヤマト全記録集』を出版した際に固定されたもので、それ以前はヤマトの大きさに関しては、おおむね300メートル以上といった取り決めしかされていなかった。そのため『宇宙戦艦ヤマト』放映当時の設定資料を見ると、全長が263メートル、300メートル、330メートル等とかなり曖昧である。ベースとなった戦艦「大和」は、全長263メートルである。

さらに上記の諸元は現実的にシミュレーションした場合に矛盾が生じる。特に、以下の3点は制作者側も矛盾を承知の上での演出であり、設定書に矛盾点として明記されている。

設定されたサイズでは、艦載機は数機しか格納できない。
第一艦橋内部が、設定から導かれるサイズにくらべて広すぎる。
船の形からロケット型に絞られる艦尾の形状は、立体化すると矛盾が生じる。

建造後の改修・改装点
スカンダルへの航海時
アステロイドシップ計画
航海途上、敵の攻撃を受けながらも艦体修理を続けられるようにするため、真田志郎発案による、アステロイドシップ計画が採用された。これは小惑星に反重力感応器を打ち込んで、ヤマトに引き寄せて装着し擬装する(アステロイドシップ)とともに、攻撃を受けた場合、感応器を操作して小惑星群を艦体の周囲に回転させ(アステロイドリング)、敵のミサイルやレーザー砲を跳ね返そうというものだった。なおアステロイドシップとは、ヤマトの初期企画案に、小惑星(岩)にエンジンや武装や艦橋などを儀装し、そのまま船にしてしまうという奇抜なアイディアがあり[27]、その名残である。
空間磁力メッキ
光学兵器やエネルギー兵器を反射させる特殊な防御装備。真田発案による追加の装備。

対白色彗星帝国戦役時
西暦2201年の計画ではアンドロメダ同様、自動制御方式が導入されることになっていたが、無断出撃したため導入されずに終わる。その他の改良は、真田志郎、徳川彦左衛門の尽力により、計画通りに行われている。

タイムレーダー
艦首下部のバルバス・バウ付近に新たに装備。
主砲
改良が加えられ、射程距離が延伸されている。
波動エンジン
改造が施されコンパクトになり、空いたスペースを利用して中型雷撃艇を搭載した[28]。波動砲発射後のエネルギー回復力も強化された[29]。
これらが描写されているのは『宇宙戦艦ヤマト2』のみであり、『さらば宇宙戦艦ヤマト』では廃艦して記念艦にする予定だったこともあり、改良の描写も性能向上を思わせる描写も無い。出港後に真田技師長により、波動砲の収束率向上のための応急改造を行っている。

対暗黒星団帝国戦役時
西暦2202年、旧式化していたヤマトは大改装された。

側面と艦首上部、第二砲塔上面に錨マークと、各主砲の砲身に参戦章[30]のペイントが施されている。

波動エンジン
大幅にパワーアップ[31]。また、増幅装置「スーパーチャージャー」を備え、これにより連続ワープ(超長距離ワープ)の使用が可能となった。画面上での描画もそれ以前とは大きく異なり、青色の透過光を使用したスピード感のある画面効果となっている。
新波動砲
同時に波動砲の威力も格段に向上し、また短時間のインターバルをおいての連続発射が可能となり、波動砲発射室も改装を受けている。発射時の艦内電力供給停止措置も必要なくなった。(『宇宙戦艦ヤマトIII』以降は再び「波動砲」と呼ばれるようになる)。
主砲
エネルギーチャージ式からエネルギーカートリッジ式に改められ、威力・連射速度共に向上している(その威力は、数回の射撃で暗黒星団帝国の中間補給基地を殲滅した程である)。また、カートリッジ化に伴いオプション弾の使用が可能になる。
波動カートリッジ弾
カートリッジに波動エネルギーを充填した新型主砲弾。この装備は改装後の主砲でも攻撃を受け付けなかったゴルバ型機動要塞に対して非常に有効であった。
波動爆雷
波動エネルギーを充填した新型爆雷。後部甲板(第三砲塔とメインノズルの中間辺り)に専用発射管と共に搭載された。これは弾薬庫からベルトコンベア(設定画にはレールと記載)で運ばれてきた爆雷が、断続的に発射管にセットされる独特の構造となっている。こちらも波動カートリッジ弾同様、ゴルバ型機動要塞との戦闘の際に初めて使用されている。
全天球レーダー室
第二艦橋下部に全周囲モニターを用いた天体観測ラボを設置。以前装備されたタイムレーダーを撤去し、その跡にハッチを設け、高精度センサーである、三次元センサーが装備されている。
その他
大作戦室は拡大改装され、中央コンピューター室となった。また第二・第三艦橋内や主砲発射室、格納庫などの艦内も、大幅に内装がリニューアルされている[32]。

移住星探しの航海時
第2の地球を求めて出発した際、その任務に見合った改装が施されているが、画面を見る限り変更点は見受けられない。

コスモハウンド発進口
側面に追加される。
亜空間ソナー
応急改造で三次元センサー部に、センサーそのものに直付け。
ハイドロコスモジェン砲
上甲板(自動航法装置室)に取り付けを行っている。[33]

対ディンギル帝国戦役時
新たに射撃管制システムが装備された。それに伴い、第一艦橋上部に射撃管制用レーダーが追加、また第二艦橋側面にも指向性アンテナが設置されている。第二・第三艦橋内や主砲発射室、格納庫なども、再度内装がリニューアルされた。

対ハイパー放射ミサイル艦首ビーム砲
三次元センサーを一時的に取り外して設置している。
探査衛星発射用カプセルミサイル
前部上甲板に、探査衛星発射用カプセルミサイル[34]打ち上げランチャー(4連)も新設された。
コスモ三式弾
対空砲弾として用意されたが劇中では使用シーンはカットされている。[35]
『完結編』では錨マークは消され、主砲への参戦章(帯の数は3本から変更なし)のみのペイントとなっている。

『ヤマト完結編』以降の作品に登場したヤマト
『YAMATO2520』 - 第17代・18代YAMATO
シド・ミードによるデザイン。
『火聖旅団 ダナサイト999.9』
ラスト、アルカディア号などと共に登場したのみ。
『銀河鉄道999 エターナル・ファンタジー』
ラスト、アルカディア号やクイーンエメラルダス号と共に登場したのみ。
『松本零士999?Story of Galaxy Express 999?』(2000年 プレイステーション)
第7章に登場。イスカンダルでネオガミラスとの交戦に駆けつける。
『コスモウォーリアー零』(2001年 プレイステーション)
バトルアナライザーが探す伝説の宇宙戦艦ヤマトとして登場。
『新宇宙戦艦ヤマト』 - グレートヤマト
艦体が拡大され、武装も強化されている。

こぼれ話
1985年に海底調査により、実際の沈没した大和の状態は、艦体が二つに破断し、主砲塔も艦体から分離し、艦橋付近は粉々になっていたため、アニメ第1作の大和登場シーン(左に大きく傾いてはいるが、比較的原形をとどめていた)は有り得ないことがわかった。この事実を知ったときプロデューサーの西崎義展はがっかりしたという。

2009年02月04日

住友家(すみともけ)は住友財閥の創業者一族

住友家の始祖
住友の姓は、戦国の末、もともと先祖に順美平内友定という人物がおり、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目にその子・小太郎(忠重)が父の姓と名をとって「住友」の姓を称して室町将軍に仕えて、備中守に任じられたのに始まる。 平家の末裔である戦国武士だった住友家の先祖は、国取り物語の戦国時代を有為転変の歴史を生きる。室町将軍に仕えた「始祖」・住友忠重の子・頼定は、足利義晴に仕え、頼定の子・定信は刑部承と称した。そして、定信の子・定重は、今川義忠(今川義元の祖父)に仕えるが、定重の子・信定の代になり、今川氏が滅んでしまったので、摂津の中川清秀に仕え、入江土佐守と称し、中川十六騎の一人として知られたが、尾崎の陣で戦死してしまう。また入江土佐守(信定)の子・政俊は越前国の柴田氏に仕え、若狭守と称し越前丸岡城にあったが、柴田勝家と共に北庄城で滅んでしまった。政俊の子・長行は、徳川家康の子で結城家へ養子入りした結城秀康に用いられるが、住友家の武家の歴史はここまでである。戦国の習いとはいえ、武家社会の興亡の激しさと無情を感じたのか長行は、自分の子供たちに武家の世界から足を洗わせた。
メソッド ディスポ ワシン ナギイ 十字星 ケルセ ロービ はつい バナナの涙 鹿鳴つまみ 延暦 スーパー ハリケーン ノンブル タイム メラネシア メラルド スタンバイ ダイク スパン バックナ きゃべつ マスアミ ジャテラ ローフ レクイエム がいがん トリプシ リップ ハーピー ドラス ハゲイ トッカ リグナビ ハット チューリ ランド フラック ツンドラ せろりあ サフ たぬきじる め組最 エスキナ パスモ かたしな レジューム プラン オーバ ソビエト

初代政友・「富士屋」の創業
長行の二男で兄の興兵衛に代わって家督を継いだ小次郎政友は、天正年間に生まれ、涅槃宗の開祖、空源乃意上人にしたがって仏門に入り「文殊院空禅」と称した。宏学達識で涅槃宗の後継者と見られていたが、寛永年間に涅槃宗が天台宗に吸収されたのを機に還俗し、洛中に、書籍と医薬品を商う「富士屋」を開き、号を嘉休と称し修道三昧の生活を始めた。これが「町人・住友家」の興りである。政友は商売上の心得を『文殊院旨意書』にまとめたが、これは現在に至るまで住友グループ各社の社是の原型となっている。

住友家の家祖と業祖・「泉屋」の創業
住友家には、住友家の「家祖」と、住友家の事業の「業祖」の2人がいる。嘉休こと住友政友(家祖)には一男一女があり、男の子政以には「富士屋」の跡を継がせ、女の子には、嘉休の姉婿にあたる銅師で、涅槃宗の信徒であり、空禅(政友)の檀家であった蘇我理右衛門は、空禅が還俗して「富士屋」を開く際、物心両面で政友を助けた。そして蘇我理右衛門(業祖)の長子理兵衛友以(住友友以)を養子に迎えたことが、住友家と銅との出会いであった。忠重から数えて九世にあたる。以後、大阪に居住し、代々銅商を営み「泉屋」の家号を用いた。

南蛮吹き
住友家と精銅とは、切っても切り離せないものがあるが、その端緒となったのは、理右衛門が、天正19年、泉州堺浦に来た明人の白水から「南蛮吹き」と称される粗銅から銀を分離する精錬法を学んだことに始まる。当時の日本では、粗銅の中に、金・銀などが含まれていることが知られておらず、また金や銀を分離するその精錬技術も未知のものだった。理右衛門は、明人の白水からその精錬方法を学ぶと、その技術を秘伝としてたが、この「南蛮吹き」のおかげで、住友家は粗銅から銀を取り出して、膨大な利益を上げるようになった。

別子銅山
住友理兵衛友以の孫にあたる吉左衛門友芳の代には、元禄4年に伊予の別子銅山の開堀に着手。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し、重要な輸出品として日本を支えることとなると共に約280年にもわたって住友の重要な事業の柱となった。今日の住友家の基礎、住友財閥の出発点は、この住友友芳が開発した別子銅山によって築き上げられたものであると言ってよく、事実、住友家の歴史の中では、この四世吉左衛門友芳をもって、「住友家中興の祖」としている。

明治時代に入ってからは文化事業にも関わり、十五代目吉左衛門友純(ともいと)は大阪府立中之島図書館の建物を寄贈。その子十六代目吉左衛門友成はアララギ派の歌人でもあり、斉藤茂吉、川田順(住友本社の重役でもあった)とも交流があった。

なお、住友家当主が「吉左衛門」を名乗るようになったのは、三代当主住友友信(友以の子)からである。

住友財閥における住友家

住友友純住友財閥における住友家、特に15代目吉左衛門友純以降のそれは「君臨すれども統治せず」の立場をとった。財閥本社社長たる歴代吉左衛門の仕事は、究極的には財閥の事実上の最高権力者である住友本社(住友合資会社)総理事の信認に尽きるといってよく、個々の事業に口を差し挟む事はなかった。また、16代目吉左衛門友成の兄弟である寛一・元夫は住友本社の株主ではあったが、本社はもちろん傘下事業の役員にも名を連ねることはなかった。この点では三井家や岩崎家と対照的と言える。

この傾向は実は江戸時代から存在していたが(当主が幼少、病弱その他の理由などで、経営に関わらなかったケースが多く、実権はいわゆる「大番頭」が握っていた)。一方で会社法が整備され、他方で旧公家宮武家出身で実業家としての経験がない友純が当主となった明治に入ってからは、一層顕著になった。

但し、三井財閥のように、財閥家族と財閥本社役員及び傘下企業の間に一種の緊張関係があった訳ではなかった。吉左衛門を「家長様」と呼んでいた事に象徴されるように、上は総理事から下は一般社員までに至る吉左衛門に対する敬愛の念はすこぶる高く、歴代吉左衛門もまた、一方では文化事業を通じて住友の名を高め、他方では家長・財閥本社社長として企業モラルの引き締めの任に当たっていた。

財閥家族の指定
財閥家族の企業支配力を分散し、人的関係の切断がはかられたのが、財閥家族の指定であり、そして昭和22年11月に成立した「財閥同族支配力排除法」であった。持株会社整理委員会は、占領軍当局の指令を受けて、財閥家族の範囲を確定する基準を下記のように選択した。

財閥家族姓を名乗る尊卑族三親等およびその家族(姻族を含まず)
所有有価証券、現金、預貯金額計100万円以上
所有家屋500坪、宅地2,000坪、農地山林50町歩以上
当該会社発行株数に対し、持株比率10%以上の株式所有者
企業支配または経営発言力
以上の基準によって、昭和22年2月、住友家ではつぎのものが財閥家族に指定された

第16代住友吉左衛門
住友寛一
住友義輝
住友元夫

住友家の親族・姻戚関係
ここでは、明治に入ってからの住友家とその親族・姻戚関係について述べる。

明治に入って、住友事業は12代目吉左衛門友親と、その子13代目吉左衛門友忠の下で営まれていたが、1890年に友親、友忠が相次いで亡くなり、男系相続者が途絶してしまう非運に見舞われる。この時、住友家総理人広瀬宰平と大阪本店支配人伊庭貞剛は、友親の妻・登久に14代目吉左衛門を襲名させる一方、友忠の妹・満寿の婿養子として清華家の徳大寺隆麿を迎え、住友家の命脈をつないだ。これが15代目吉左衛門友純で、徳大寺実則、西園寺公望の実弟である。実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に入れ替わった。

(男系系図:東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━鷹司政煕━鷹司政通━徳大寺公純━住友友純)

住友友純は、友親の長女・満寿夫人との間に4男1女(3男は早世)をもうけたが、長男の寛一は廃嫡となり、次男の厚が16代目吉左衛門友成として住友家を継いだ。

住友吉左衛門友成は元東宮職御用掛の公爵西園寺八郎(西園寺公望の女婿・旧長門国山口藩(長州藩)藩主・公爵毛利元徳の8男)の次女・春子と結婚した。友成・春子夫妻は男子に恵まれなかったものの2女をもうけ、長女・邦子は、旧侯爵・元伊勢神宮大宮司などを歴任した、佐々木行忠の長男行美(東京大学理学部教授)に嫁いでいる。旧侯爵・佐々木行忠は、昭和17年に皇典講究所長、國學院大學長にあげられ、さらに国史編修院総裁を経て、昭和21年に東京大神宮宮司、同26年には伊勢神宮大宮司に就任した国史の大家。なお行忠の祖父高行は枢密顧問官で明宮(大正天皇)の御教養主任だった。一方友成・春子夫妻の次女・博子は、昭和電工元社長・安西正夫の次男・直之(三井不動産)に嫁いた。直之の兄、すなわち正夫の長男・孝之(元昭和エンジニアリング社長)は元日清製粉(現日清製粉グループ本社)社長・正田英三郎の次女・恵美子と結婚した。恵美子の姉、すなわち正田の長女が皇后美智子であるので住友家は安西家・正田家を通じて皇室と姻戚関係でつながっている。また安西直之の妹公子を娶ったのが、住友銀行相談役堀田庄三の長男健介(住友銀行)であるから、岡橋林の跡を継いだ住友家評議員会の前委員長であった堀田庄三は、住友家の相談役、総理事格から、さらに踏み込んで、住友家と閨閥でつながった。なお西園寺八郎の三男・西園寺不二男は鮎川義介の長女を娶り、自らも日産コンツェルン傘下の日産興業社長に就いている。元参議院議員で日中友好に努めた西園寺公一は八郎の長男であり、春子や不二男の長兄にあたる。

住友友成の姉の孝は、旧壬生藩三万石の藩主鳥居忠文子爵三男忠輝(元住友本社取締役)を婿養子に迎えており住友忠輝と改名した。弟の住友元夫は、やはり旧小浜藩十万四千石の藩主酒井忠克(さかいただたえ)伯爵の七女寿枝子を娶っている。寿枝子の姉香枝子は、旧高松藩主の末裔旧伯爵の松平頼明(まつだいらよりひろ、本郷学園理事)に嫁いでいる。寿枝子の姉・小枝子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫に嫁ぎ、その娘・由利子(寿枝子の姪にあたる)は古生物学者で理学博士の鎮西清高(京都大学名誉教授)に嫁いでいる。また、鎮西と同じく古生物学者で理学博士の岩崎泰頴(弥太郎の曾孫で熊本大学名誉教授)は由利子の兄であり、寿枝子の甥にあたる。

友成の兄の住友寛一は、明治29年5月23日生まれ。前述のとおり若くして絵画に傾倒したため廃嫡され、以後画家・美術品収集家として過ごし、岸田劉生とも交流を持った。泉屋博古館所蔵の中国書画のほとんどは寛一のコレクションである。また鎌倉市の景観重要建築物「村上邸」の茶室は、鎌倉にあった寛一邸から移築したものである。皆川宗光の娘との間に4男2女をもうけた。長男の住友務は、元住友ビジネスコンサルティングと住友オーストラリア開発の会長を歴任した。住友務の長男進(日本電気)の妻揺子は東曹産業社長岩瀬徳郎の二女。岩瀬徳郎の父徳三郎は、元東洋曹達工業社長である。岩瀬徳郎の長女は、キッコーマン醤油一族である11代茂木七左衛門の養子賢三郎に嫁いでいる。また、住友務の妹文子は、元ミツワ石鹸社長の三輪善雄に嫁いでいるが、善雄の妹の佐登子は、元キッコーマン醤油10代社長茂木佐平治に嫁いでいるので、当主吉左衛門の兄住友寛一一族は、茂木一族と二重結合の閨閥関係にある。住友務の弟勝は、元関東電工会長の浅野八郎の娘桃枝を娶っている。浅野八郎は浅野財閥二代目総帥浅野総一郎の三男である。二代目総一郎の妻千代子は、自由民権運動の政治家・板垣退助の娘である。

当主の弟の住友元夫は、明治45年1月1日生まれ。昭和11年に京大の物理学科を卒業、同21年に住友金属工業に入る。製鋼所技術部研究課長、技術部長、同所長友成代理兼研究部長、中央技術研究所副所長を経て、昭和37年11月取締役中央技術研究所長となり、常務を経て、昭和45年11月専務に就任、同47年11月に相談役、住友精密工業会長となった。住友元夫の長男住友芳夫(住友金属工業)も、阪大大学院基礎工学研究科博士課程卒業の工学博士であるが、伯父の当主住友吉左衛門に嫡男がいないため、当主吉左衛門の養嗣子となっている。

このように、住友家は先代と二代続いて、旧華族と密接な閨閥関係を結んでいる。旧華族とのつながりといえば、当主吉左衛門の兄・寛一の子孫のほか、四男融が迎えた妻光子も旧公爵鷹司信輔の娘である。鷹司家は、公卿の中でも最高の家柄である摂家であり、徳大寺家や西園寺家とは、代々深いつながりを持っている。例えば、先々代の住友友純や西園寺公望公爵、そして元侍従長の徳大寺実則公爵などの父親である徳大寺公純は、もともと鷹司家から徳大寺家へ養子入りした人である。さらに、徳大寺実則の長女順子は、鷹司信輔の父である鷹司煕通(陸軍少将、侍従長)へ嫁ぐ、というように、鷹司家と徳大寺家は網の目のような連綿とした濃い血のつながりがある。このように、旧華族、しかも家格が最上位の摂家、清華家の家系と密接な閨閥関係にある住友家の家系であるが、住友家が旧財閥の西の横綱であるとしたらば、東の横綱、三井家との幾重にも重なり会ったつながりがある。

住友友純の妻満寿の妹楢光の嫁いだ先が、三井十一家の一つ「三井永坂町家」の八代目当主、元三井物産社長三井高泰(守之助)に嫁いでいる。楢光の嫁入りの時は、大阪から東京まで、7台の貨車を借り切って婚礼衣裳を送ったという。しかも三井高泰の長男高篤(元三井物産取締役)は、三井総領家である北家十代の三井八郎右衛門(高棟)の妹礼子を妻にしているので、住友家と三井家の閨閥のつながりは、単に一族と一族との結合ではなく、本家と総領家が直接に結びついた本格的なものである。三井家との結びつきこればかりではない。先代吉左衛門友純の実兄徳大寺実則公爵の三女奉子は、三井・室町家の三井高従に嫁いでおり、さらに実則の三男で分家した旧男爵徳大寺則麿の長女鶴子、つまり実則の孫娘が、やはり三井・新町家の三井高直に嫁いでいるので、住友と三井両本家は、四重、五重の閨閥関係にある。また当主吉左衛門の姉婿忠輝の兄の旧子爵鳥居忠一も三井・南家八代八郎次郎の長女寛子を娶っている。この公卿を中心とした旧華族と、三井総領家である、北家、永坂町家、室町家、南家、新町家と実に三井十一家のうち、総領家を含む三井の五家との閨閥の拡がりがある。

祠堂祭
例年4月25日に「五山の送り火」が行われる京都東山の麓鹿ヶ谷の住友家別邸だった「有芳園」で開かれる、「祠堂祭」に住友直系グループの社長や会長、相談役といった面々が集合する。約3000坪をこえる園内の一隅にある「芳泉堂」と名付けられた小さな祠がある。これは、昭和15年、日本紀元2600年の祝典が行われた年であったが、また住友では、別子銅山の開抗250年にあたる年で、歴代の住友家当主や旧住友本社幹部物故者の霊を祭るため、長谷部鋭吉の設計によって典雅な持仏堂として建立された。「祠堂祭」に参列を許されるのは、住友家ゆかりの者と、住友直系グループの社長会「白水会」のメンバーと、白水会卒業生(元社長)だけに限定されている。つまり「祠堂祭」は、住友家当主と住友直系企業グループの社長や会長、相談役らの最高経営責任者が、年に1度「物故者慰霊祭」のために、一堂に会する日である。なお、4月25日は「業祖」蘇我理右衛門の命日である。また祠堂祭の幹事は、「白水会」メンバー企業の持ち回りとなっている。

2009年01月21日

公式種目にもなっている

テコンドー(跆拳道)とは格闘技、スポーツの一種で、韓国の国技でオリンピックの公式種目にもなっている。「跆」(足偏に台)は、踏む・跳ぶ・蹴る等の足技、「拳」は突く、叩く、受ける等の手技、「道」は、礼に始まり礼に終わる精神を表している。

多彩な足技と、下段への攻撃が厳しく制限されていることから、足でやるボクシングと形容される。

創始者は、崔泓熙(チェ・ホンヒ)。日本の「松涛館空手道」を参考にして作られたとされる格闘技で、1955年4月11日、テコンドーと命名した。1966年にITFが発足。

日韓併合時に日本から伝わった空手は空手道(そのまま日本語読み)、コンスド(空手道の韓国語読み)、タンスド(唐手道の韓国語読み)、拳法など、様々な名称で普及されていた。当時の主な道場勢力は以下の通りである。

青涛館
(1944年 - )初代館長は李元国(朝鮮戦争時、日本に密航し、「売国奴」として地位は抹殺される)。2代目はユン・ケピョン。
この分館として下記のものが派生した。

吾道館
館長は崔泓煕(チェ・ホンヒ)少将。軍隊内で広める。蒼軒流空手と称したこともあるが、李承晩大統領と接し、1955年から「テコンドー」の名称を使い始める。1960年に起きたベトナム戦争時には657名のテコンドー師範を同地に派遣した。また、民間道場とは差別化し、一線を画していた。
国武館
正道館
青龍館
朝鮮研武館空手道部智道館(1946年 - )
館長チョ・サンソク。 柔道道場内に発生。
YMCA拳法部彰武館(1946年 - )
館長ユン・ピョギン。のち智道館と親交が厚くなる。この館の分館として講徳院、韓武館等が挙げられる。
武徳館 
館長黄琦(ファン・ギ)。館長は南満州で朝鮮古武術を学んだとしているが、裏付ける資料はない。鉄道局内のクラブとして発生。唐手道(タンスド)あるいは手縛道(スバクド、手縛は高句麗時代からあったとされる武術)の名で普及。この系統はいまも活動中。
松武館(1946年 - )
館長ノ・ピョンジク。

「テコンドー」への改称
1950年に朝鮮戦争が勃発。臨時政府のあった釜山で「大韓空手道協会」が創立される。1ヶ月後、主導権争いの為か武徳館館長の黄琦が離脱。続いてその1ヶ月後に、青涛館館長の孫徳成(ソン・トクソン)もまた離脱する。
1953年に黄琦は独自に「大韓唐手道協会」及び「大韓手縛道協会」の2つの団体を創立させる。また大韓民国文教部(日本で言う文部科学省)体育会で登録を図る。
空手道や唐手道では名称がいかにも外国のものなので、それを排するために民族的な名称に統一するのがふさわしいとされ、1954年12月に崔泓煕が中心となった名称制定委員会で、テッキョンの名を模した「テコンドー」の名称が満場一致で決定された。
1959年9月に崔泓煕少将が大韓空手道協会を「大韓テコンドー協会」に改称する。ところが1961年、崔泓煕の立場は彼の後輩にあたる朴正煕による軍事クーデターが起きてから、一転してしまう。経済政策に失敗し、当時の李承晩大統領が、1960年の4.19学生革命で国外に追われ、続く1961年の5.16クーデター後、政権が朴正煕が率いる「国家再建委員会」の手に握られる。旧政権関係者であった崔泓煕は、立場上色々と難しくなったのか軍職を退き、マレーシア大使として国外に出国。彼が居なくなった後、国家再建委員会が団体の文教部への再登録を求めたことから、再び統一名称問題が持ち上がってしまう。崔泓煕の政治的豪腕に対する反発からか、各館の館長たちは実は今まで通りの名称を継続していたのである。
1961年9月「すでに空手の名称は世界に通用している」と言う事で新たに名称制定会議が開催され、テコンドーのテ(跆)の字と空手の(手)の字を繋ぎ、「跆手道(テースド)」という名称が造られる。組織もまた「大韓テースド協会」に改称される。この時何故か、武徳館館長黄琦が参加している。しかし、やがて独自の運動を始め、1962年8月に智道館のウン・チビュンを伴い、正式脱退する。
1965年、韓国に帰国した崔泓煕はテースドに対し、巻き返しの活動を開始。再度テコンドーの名を復活させ、同年8月に「大韓テコンドー協会」と改称し会長に就任。
1965年3月18日「統合宣言式」を大々的に開催。黄琦の姿が何故かそこにあった。翌朝、彼は「統合は無効!」と宣言。大韓手縛道会として独自の活動を開始。

団体の分裂
再び会長職についた崔泓煕も、1年あまりで職を退き、カナダへ移住。この亡命には込み入った政治的事情があったようである。国際テコンドー連盟の発表によれば朴正煕大統領や全斗煥大統領の暗殺計画を立てた嫌疑による亡命とされている。

1966年に大韓テコンドー協会、カナダ、アメリカ、西ドイツ、イタリアなどの海外組織により、国際テコンドー連盟(ITF)が創設。式典はソウルの朝鮮ホテルで行われた。ところが同年、松武館館長ノ・ビョンジクが大韓テコンドー協会の第5代会長に就任している。こうしてテコンドーは2つの組織によって世界に広まっていくことになる。
1967年 - 国会議員の金容彩が大韓テコンドー協会の第6代会長に就任。
1968年 - 大韓手縛道会がソウルで第1回世界大会を開催。
1971年 - 朴正煕大統領から「国技テコンドー」の揮毫を受ける。
1973年 - 世界テコンドー本部総本部道場「国技院」が開館。

オリンピック競技化
1973年に崔泓熙がカナダへ亡命、その際ITFの本拠地をトロントへと変更し、これを受けて韓国が独自にWTFを設立する。

1988年のソウルオリンピック、1992年のバルセロナオリンピックで公開競技として実施。

1996年のアトランタオリンピックではスキップされたが、WTFの総裁であり、かつIOC副会長(当時)であった金雲龍の手によって2000年のシドニーオリンピックで正式競技として採用。

団体

ITF
国際テコンドー連盟 (The International Taekwon-do Federation)は、1966年に9ヶ国の承認を受けてソウルで発足した。手足のみ防具を着用し、ライトコンタクト制のルールだが、ベースとなった空手により近い。ルーツは北朝鮮系。

WTF
世界テコンドー連盟 (The World Taekwondo Federation)は、崔泓熙が亡命したことを受けて1973年に設立された。オリンピックの正式競技となっているのはこちらである。頭部、胴部を保護する防具を着用するなど、よりスポーツ的になっており、空手との差別化を念頭に置かれている。ルーツは韓国系。

TA
独立テコンドー協会(Independent Taekwon-do Alliance)は、政治 派閥に関わる事無く、修行者の段位を国際的に認知し登録する事を目的とした協会。ITFより独立した。


ルーツ・国籍に関する問題
一般にWTF-韓国系、ITF-北朝鮮系である、と紹介されることが多いが、関係者間には異論もある。

第一に創始者は韓国籍であり、韓国からウィーンを経てカナダに亡命しており、北朝鮮籍になったわけではない。ルーツは北朝鮮と言われる理由の1つに、創始者崔泓煕の故郷が現在の北朝鮮にあたることが考えられる(ただし崔泓煕は戦前に来日しており、戦後は韓国軍の高級将校であった)。
北朝鮮で広まっているのは確かにITFテコンドーであるが、これはテコンドーの国際化を標榜する上で当然の過程と考えられており、実際北朝鮮にテコンドーが初めて紹介されたのは日本や欧米よりもかなり遅い。
崔泓煕亡命後、韓国では新たに立ち上がったWTFが国技の担い手となり、学校教育から軍隊格闘技まで国を挙げて盛んに奨励された(分裂以前からテコンドーは軍隊格闘技として大きく発展したのであるが)。このためWTFは北にはあまり紹介されず、韓国を中心としたスポーツとなったのに対し、世界を周り回った後、北朝鮮に伝えられたITFテコンドーは、民族伝統の武術であると、こちらも軍隊を中心に盛んに奨励された。そのため北にはITF競技者が多く、後進ながらもITF競技国の中でも屈指のテコンドー大国になっており、その強烈なイメージ(例えば大きなイベントの際に、マスゲームと共に大規模な演武を行う等が報道番組で度々放映されている)が北朝鮮系と言われる所以と考えられる。北系というよりは、北にはITFしか入らなかったというのが実際のところである。
日本にはITF・WTFともに国内の在日韓国・朝鮮人の多さや、近年の格闘技人気の高まりもあり一定数の競技人口が存在する。日本のITF団体(日本国内でもITF・WTF共に多数の団体に分裂している)の中には朝鮮総連と親交のある団体、北朝鮮籍の競技者も多数おり、これがまた前述のイメージに繋がっていると考えられる。
日本国内には北・南のどちらでもない"朝鮮籍"(戦前、朝鮮半島が分裂する前からの日本在住者およびその子孫)の競技者も多数おり、純粋な競技を国籍で類別される現状に疑問を呈する見方も存在する。
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オリンピック競技としてのテコンドー
1988年のソウルオリンピック、1992年のバルセロナオリンピックで公開競技として実施。アトランタオリンピックではスキップされたが、WTF総裁である金雲龍IOC副会長(当時)の手によってシドニーオリンピックで正式競技として採用されている。

本来、男女共に8階級存在するテコンドーだが、正式競技として採用された際に簡略化のために4階級に制限されている。また、代表選手数は男女共に1カ国から2人まで、最大で4人までに制限されている。そのため、以前は韓国がメダルを独占していたが、シドニーオリンピック以降では多彩な国がメダルを獲得している。このような形で出場枠制限が行われているオリンピック競技は他に存在しない。


主なテコンドーの選手

WTF系
岡本依子 - シドニーオリンピックのテコンドー女子67キロ級の銅メダリスト。

ITF系
黄秀一 - 世界大会のライト級などで優勝しており、ナムコから発売されたポリゴン対戦型格闘ゲームの鉄拳においてテコンドーを使用するキャラクターのモーションキャプチャモデルを務めた。
ピア・ゲネット - 世界大会のヘビー級で幾度もの優勝を飾ったカナダ出身の選手。K-1に参戦し、アンディ・フグ、中迫剛と対戦したことがある。K-1での戦績は2戦2敗。

テコンドーの起源に関する議論
テコンドーの起源を5世紀に描かれた高句麗壁画に記された手搏やテッキョン(片足で相手を蹴って倒す遊びと言われる)に求めるのが韓国、北朝鮮では一般的である。

しかし、日本でよく指摘されるところでは、李氏朝鮮時代には射亭と呼ばれる弓矢の射的場などがあって弓技は盛んだったが、それを除いては武が軽んじられていたので、1950年代の朝鮮半島に独自の武道、武術が残存していたかについては疑問が残るという。また、朝鮮半島の歴史書『三国史記』『三国遺事』『高麗史』『高麗史堤綱』『高麗史節要』『朝鮮王朝実録』の原文には、手縛・テッキョンに関する記述が見えないことも指摘され、これらには、日本や中国で言う流派や門派に相当するものや、故実・伝書なども現存していない。このような点が不明瞭な為、日帝に弾圧された・禁止された等という説を説く者も多い。しかし、それらの説は証明されていない。

一方、テコンドーの創始者である崔泓熙らは、船越義珍の松涛館空手を学んでテコンドーを創始したと認めており、空手の影響があることは否定できない。

また、韓国国技院副院長は、「テコンドーの起源を三国時代以前とすることが一般的だが、歴史的想像力を動員してもそれには無理がある。中国から日本へ入り、日本が改良して韓国へ入ってきた。テコンドーは空手の変形である。私も創始期にはテコンドーの起源をテッキョンとして本を執筆したことがあるが、海外に普及させる過程で昔からあった韓国の伝統武術だとすれば名分が立つからである。」と告白している[1]。更にこの記事では「空手から派生したテコンドーだが、蹴りを主眼に置いて競技化したことで、型や手動作に重きを置いた空手の陰から脱した」とも述べている。

ITF、WTF共に型(トゥル・プンセ)にはテグ(太極)など空手の形と同じ漢字の物も多く、型動作やチルギ(突き)、マッキ(受け)なども空手とほぼ同じ動作がある(ただし、ITFの型(トゥル)では朝鮮の歴史や神話の人物にちなんだ独自の形名が付けられているし、WTFの型(プンセ)には高麗(コリョ)、金剛(クンガン)等地名が使われている)。

これは創始直後の政治的混乱から崔泓熙らがITFと共に北朝鮮に亡命した時に、韓国は組織防衛のためにWTFを立ち上げたが、その時にはまだルールや形などが確定していなかったことも原因であろうと言われている。

ともあれ、近代格闘技としてのテコンドーは日本の空手が源流と考えられるが、韓国の一部には今なおテコンドーを空手の源流と主張する流派も存在しており、時として日韓の間で争いとなることがある。

日本におけるテコンドー
日本では分裂問題が相次いでおり、2001年にはJITFから独立したJTAが創設。2004年にはJITFが3つ、WTFが2つに分裂した。

特にWTFの分裂において、2000年にシドニーオリンピックのテコンドー競技で銅メダルを獲得し、2004年2月にアテネオリンピック出場権を勝ち取っていた岡本依子のアテネオリンピック出場が危ぶまれ問題となったが、最終的には団体の分裂を無視した形で個人資格での参加を認めることとなった。

また、2005年にはWTFがさらに分裂し、ITF系、WTF系がそれぞれ3つ、JTAが1つ、計7つの団体が日本国内に存在することになった。この件についてはJOCもほぼ匙を投げている状態のようである。